イランをめぐる紛争や地政学的リスクを考えるとき、ミサイル、核開発、ホルムズ海峡、制裁ばかりに目が行きがちだ。しかし、もう一つの重要な戦場がある。顔、指紋、虹彩、声紋といった生体情報である。
生体認証は本来、本人確認を正確にし、難民支援や金融取引の不正防止に役立つ技術である。UNHCRも、イランからアフガニスタンへ戻る人々への現金支援で、指紋や虹彩による登録を求めている。これは援助の重複受給やなりすましを防ぐ実務上の意味を持つ。
だが、同じ技術は監視と統制にも転用される。イランでは、ヒジャブ着用をめぐり、公共空間のカメラで女性を識別し警告する仕組みが報じられてきた。米財務省も、イラン当局や風紀警察が使う顔認識ソフトに関係する企業を制裁対象にした。つまり、生体認証は単なるITではなく、人権、制裁、治安政策が交差する「地政学的インフラ」になっている。

特に怖いのは、生体情報が漏えいしても「変更できない」点だ。パスワードなら変えられるが、顔や指紋は変えられない。紛争下で政権が変わる、データベースが押収される、敵対勢力がハッキングする、といった事態が起きれば、難民、反体制派、少数派、外国企業の協力者が後から追跡される危険がある。
したがって、イラン関連リスクを見る企業や政府は、石油価格や軍事情勢だけでなく、「誰の生体情報が、どこに、誰の管理で保存されているか」を問う必要がある。生体認証は便利な本人確認であると同時に、紛争時には人間そのものを識別・分類・排除する装置にもなり得る。イラン危機の本質は、爆発音のしないデータの戦場にも広がっている。
